さようなら、203号室。

母親との同居に向けて

8月に娘の結婚式を無事に終えてホッとひと息。これからはのんびり……していたいところですが、今年はもうひとつ大仕事が残っていました。それは、実家への引っ越しです。これまでは203号室を自宅、実家のひと部屋を仕事場にしていましたが、親子3人が実家へ完全に引っ越し、母親と同居することになりました。母親は現在リハビリ病院に入院中で、退院してくる前に全ての引っ越しを終わらせてしまう計画です。誤嚥性肺炎の疑いで母親が救急搬送されたのが6月。それ以来実家の片付けをゆるゆると進め、結婚式が終わってから本格的な引っ越し作業を開始しました。そして9月中旬、予定通り実家への引っ越しを完了。我ながらよく頑張ったものです。引っ越し作業についての感想はニュースのページで改めて記したいと思いますが、ここでは過去を振り返って文字数を稼ぎたいと思います。

これまでの引っ越しを振り返る

そういえば自分はこれまで何回引っ越ししたのでしょうか。この機会にこれまでの人生を振り返ってみました。
豊島区上池袋で生まれた自分は、幼稚園ぐらいまで自動車整備工場に隣接した長屋みたいな2階建ての家に伯母(父の姉)、伯父(父の兄)家族、そしてうちの家族と3世帯が同居していました(とはいえ、50年も前の記憶なので若干曖昧です)。同じ敷地内には伯母(父の妹)夫婦の一軒家も建っていたので、それなりに広い敷地なのでしょう。もちろん借地です。これがうちの土地だったら、こんなに貧しい生活を送っていなかったでしょう。食事は同居していた3世帯が一緒に食べ、テレビも3世帯が集まって観ていたような気がします。あれ、でもその頃はまだ家にテレビは無かったかな?ん〜、ちょっと曖昧です。
その後敷地内に隣接した一戸建てが2棟建ち、うちの家族と伯父家族がこちらに引っ越しました。今から思うと、ちゃんとした一戸建てに住んだのは、この時が最初で最後になってしまいました。もちろんこの先可能性はゼロではありませんが、まず無理でしょう。
小学生になる少し前ぐらいに、それまで住んでいた長屋を新しく建て替えて引っ越し。再び3世帯同居がスタートし、その長屋に高校卒業するまで住んでいました。長屋の中はアリの巣のように各家族がそれぞれの部屋を自由に行き来できたので、プライバシーはほとんどありませんでした。「お醤油貸して〜」「ご飯余っちゃったから食べて〜」「雨が降って来たわよ〜」など、今ではあまり見かけないようなやりとりが毎日のように行われていました。ご飯と言えばその頃は「スが入っちゃったんだけどご飯食べて〜」と言って、小皿に盛られたご飯をやりとりしていたようですが、要するに酸っぱくなっちゃったご飯、痛んだご飯なわけで、そんな状態になったご飯でも大切にしていたんだなぁと、懐かしさのあまり、思い出す度に自分の心が酸っぱくなります。もっとも今、「スが入っちゃったんだけどご飯食べて〜」と誰かが持ってきたとしたら、この人は頭がおかしいんじゃないかと疑ってしまうでしょうし、速攻で断りますけどね。試しに「すが入ったご飯」で検索してもうまくヒットしなかったのは何故でしょうか。もしかしたら、あまり一般的ではない表現だったのかも知れません。
時代が進むに連れて自動車は滅多に故障しなくなっていきました。もしも故障したとしても、修理に出す先は自動車を購入したディーラーです。そして戦後から営んできた実家の自動車整備工場も、仕事が激減していきました。うろ覚えですが、確か後年の父親の給料は8万円だったと記憶しています。そんな中持ち上がったのがマンション建設計画です。自動車整備工場を営んでいただけに、幸いにも広い土地があります(くどいようですが借地です)。マンション全てが父親兄弟の持ち物であれば今頃楽な暮らしをしていたんでしょうが、地主、建設会社、父親兄弟が三等分するという話でまとまり、マンション建設が始まりました。
工事の間、毎年初詣に出かける子安稲荷の近くにあるアパートに引っ越しました。2階建てのそのアパートは、1階に大家さん家族が暮らし、2階が3部屋あって、手前が姉2人の部屋、一番奥が父母と自分、真ん中は以前から住んでいる大学生の部屋でした。このアパートは壁が薄く、しかもこの大学生が夜更かしで、よく長電話はするし、友人がちょくちょく遊びに来ては荻野目ちゃんの「ダンシング・ヒーロー」を夜中に熱唱したりと、とても迷惑していました。あまりにうるさい日は夜中に壁を叩いて抗議もしました。
1年ぐらいして、ようやくマンションが完成しました。うるさい大学生ともこれでおさらばです。初めてのマンション生活、きっと夢のような暮らしが待っているに違いありません。ドキドキ、ワクワク、期待に胸は高鳴ります。しかしすぐに、それがただの夢物語だったと気づかされました。間取りはいい加減だし内装はいかにも安物、新築なのに古くさい感じさえします。さらに、11階に住むといえば聞こえはいいですが、明治通りや川越街道、春日通り、山手線や踏切(当時はまだ踏切があった)の騒音がモロに聞こえてきます。夜中、1ヶ月に1度ぐらいの割合で事故が起き、その音で目覚めます。「ガッシャーン!」我が家の前の明治通りは王子方面からずっと直進が続くので、前方不注意になりがちなのでしょう。大学生の騒音から開放されたと思ったのに、今度は「おかま」の騒音に悩まされるとは思いませんでした。そんなこんなで、早くこのマンションから出たい、それが自分の目標になっていました。

結婚を機に練馬へ、そしてまた池袋へ

引っ越しの話をさらりと書くつもりが、振り返ってみたら予想以上の長文になってしまい、すいません。
で、マンションを出たいがために結婚したわけではありませんが、1990年に今の妻と結婚。今の妻なんて書くとバツイチと勘違いされそうなので補足しておくと、自分は初婚で今のところ離婚経験はありません。今のところなんて書くと将来離婚する可能性があるのかと言われそうなので補足しておくと、今のところ離婚する気はありません。今のところなんて書くと……きりがないのでやめておきます。ともかく、結婚を機に練馬区の高松というところにある新築アパートに引っ越しました。アパートといっても1階と2階があり、それが5棟繋がった長屋タイプのアパートでしたから、一戸建てのような造りが気に入ってここに決めました。
初めて池袋の外で住んだ自分にとって、天国のような場所でした。2階の窓を開ければそこには畑が拡がっており、土のにおいが漂ってきます。騒音も振動も無いストレスフリーな環境は、毎日が田舎暮らしをしているようでした。ただし、最寄り駅の西武池袋線中村橋駅からは徒歩20分、家の近くにあるバス停を使うと、当時仕事場があった霞ヶ関までは片道1,000円もかかりました。まだデジタル化は進んでいなかったので、仕事場へ行かないと仕事になりません。交通費だけでもかなりの出費だったはずです。でも、それでも儲かっていたんですから不思議です。
先日結婚式を挙げた長女がここで誕生し、週末は光が丘までよく散歩をしました。阪神淡路大震災やサリン事件、セナの訃報などのニュースを観たのもここでした。思い出深いこの地に4年間住み、次に移り住んだのが203号室です。
正直言って、ずっと練馬で暮らしたかったぐらい気に入っていた場所でしたが、近いうちに環状八号線が家のすぐ側を通る計画があり(もう工事は完了している)、そうなってしまったらこの場所も静かでは無くなってしまうでしょう。それに、保育園の送り迎えや通勤などを考えると、利便性の良い池袋に戻るのが最善だという結論に達したのでした。
日の当たらない203号室はカビっぽい上に周囲を別のマンションやアパートに囲まれており、部屋の中が丸見えになってしまうのでカーテンはずっと閉めっぱなしでした。ただ、11階に比べて2階はさほど周囲の騒音が届いて来ないのと、明治通りの六つ又交差点近くにあった、通称「開かずの踏切」が工事によって無くなっていたのはラッキーでした。203号室で長男が誕生し、約22年ここで生活しました。
そして現在、実家で暮らしています。

さて、自分は何回引っ越しを経験したのでしょうか?

生家の長屋→一戸建て風→新しい長屋→大学生がうるさかったアパート→マンションの実家→練馬のアパート→マンションの203号室→マンションの実家と、ここまでで計7回の引っ越しをしていたようです。記憶をたどってみると、7回もしていたんですね。何だかとても多いように感じていましたが、とあるサイトによると日本人の平均引っ越し回数は6回だそうですから、自分はほぼ平凡な人間だというのがよくわかりました。しかし仕事場も霞ヶ関→南池袋→マンション202号室→マンションの実家と、計3回引っ越しを行っていますので、それを合わせると合計10回。マンションの老朽化が激しいため近い将来リフォームせざるを得ないと思うので、12回以上引っ越しする可能性が高いでしょう。
ちなみにアメリカ人の平均引っ越し回数は、何と17回だそうです。