「本能寺の変431年目の真実」を読んで

間違いだらけだった明智光秀の通説

先月号でちょっとだけ触れたように、「本能寺の変431年目の真実」(明智憲三郎著・文芸社文庫)を読みました。「明智」というだけあって、著者は明智光秀の末裔だそうです。日本で謀反と言えば明智光秀をまず思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。実際に光秀が謀反を起こし、主人である織田信長を謀殺したのは間違いないようですが、謀反に至る経緯をはじめ、明智光秀像そのものについて間違った定説が流布されているのに我慢がならず、明智氏はこの本を発表したそうです。信長はなぜ、無防備な状態で本能寺にいたのか。そして本能寺では、何が行われようとしていたのか。光秀が謀反を起こさざるを得なかったやむにやまれぬ事情とは一体何だったのか……。詳しく知りたい方は、ぜひ「本能寺の変431年目の真実」をお読みください。

明智光秀に関する定説のおさらい

光秀の半生についてはおおよそ下記のような内容が定説になっています(ウィキペディア等による)。
細川家所蔵「明智軍記」によると生まれは1528年、1534年生まれの信長よりも6歳年上になる。美濃明智城落城の際に脱出して越前に逃れ、諸国放浪の後に朝倉義景に仕官し、その後、織田信長に仕えて足利義昭の上洛を信長に斡旋し、上落後は信長と義昭の両方に仕えた。義昭の追放後は信長のもとで粉骨砕身働いたが、信長が次第に同僚や部下の前で光秀に恥をかかせる態度を取るようになり、信長に対する恨みが積み重なっていく。毛利征伐の支援を命ぜられて中国地方に向けて軍を進めていたある日、警備の手薄な状態で信長が本能寺に泊まっているのを知った光秀は、千載一遇のチャンスとばかりに進路を変更し、本能寺を目指す。光秀の謀反を知った信長は、「是非に及ばず」と最後まで抵抗を試みるも、焼け落ちた本能寺とともに49年の生涯を閉じる。
謀反成功後、安土城の財宝を強奪するなどの蛮行はあったものの、近江や京都を平定するなど順調に地盤を固めていった。しかし、中国地方で動けないはずの秀吉が信じられない早さでこちらに向かっているという。さらに親戚関係にあった細川家をはじめ、必ず味方になってくれると信じていた大名たちは光秀からの誘いを拒否。新政権を整える間もなく山崎の地で秀吉軍を迎え撃たなければならなくなった光秀はあえなく敗北。同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中で落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されてこの世を去った。
肝心の、謀反を決断した理由については諸説あります。キンカ頭とののしられたなどの「怨恨説」、光秀自身が天下を狙っていたという「野望説」、佐久間信盛などの同僚が追放され、自分もいづれ追放されるのではないかという「恐怖心説」、信長が天皇の座を狙っていたため、信長を討つよう朝廷から命令されたという「朝廷説(今までは個人的に、この説が一番それっぽいかなと思っていました)」などなど、他にもいくつか説はあるものの、自分としても今ひとつしっくり来ていなかったのは確かです。
この本では、その後天下を取った「秀吉」と「家康」がこの計画(謀反)に絡んでいたというのですから「この手の話は目新しくもないし、今更なんじゃないの?」と
にわかには信じがたい内容ではあります。しかし筆者の単なる思いつきではなく、さまざまな文献を検証し、可能性を積み重ねていった結論だからこその説得力は、すぐに影響されやすい自分としてはこれこそが「真実」だったんだなと納得させられてしまいました。
なお、ここから先は本の内容をちらほら書いてしまいますので、ネタバレしたくない方は読まないでください。

家康を暗殺するために本能寺へおびきよせようとした信長

最近までオンエアされていたモンストのCMもそうでしたが、光秀は信長よりも年下のイメージが強い。しかし定説でさえ6歳年上であり、明智氏によると18歳年上だった可能性が高いらしいのです。18歳年上となると、精神が擦り切れるまで酷使されつづけた主従関係ではなく、よき補佐役としての光秀像が浮かんでくるではありませんか。で、どうやら信長は光秀に対し最後まで特別な信頼をしていたようです。たぶん、信長に対して意見が出来たのは光秀だけだったのでしょう。意見が過ぎると密室で足蹴にされる時もあったかも知れませんし、キンカ頭と罵られたのも本当かも知れません。しかしそれがきっかけで信長を恨むようになり謀反を起こしたというのは、本能寺の変からわずか4ヶ月後に発表された「惟任退治記」が元になっており、これを書かせたのが勝者である秀吉なのですから、秀吉にとって都合のいいように真実がねじ曲げられていると見なければなりません。
では実際に、あの時本能寺で何が行われようとしていたかというと、無防備を装った本能寺におびきよせ、明智軍が急襲して家康を葬り去る手筈だったのです。信長と家康は同盟関係なのだからそんなはずはないと現代人は思いがちですが、当時は戦国時代なのですから裏切りや下克上は当たり前。天下統一のメドが立ちつつあった信長にとって家康はもはや邪魔な存在であり、同盟者といえども、いや、有能な同盟者だからこそ生かしてはおけなかったのでしょう。とはいえ、おおっぴらに同盟相手を殺すわけにはいかないので、「信長が無防備で滞在しているのを知り家康が信長殺害を謀った」という筋書きで家康を暗殺する必要がありました。そしてこのトップシークレットは一番信頼している光秀だけに打ち明けられ、光秀だけに作戦を委ねられたのです。

唐入りを最初に計画していたのは信長だった

では何故、光秀は謀反を起こさなければならなかったのでしょうか。土岐氏の再興、長宗我部家の救済など複数の理由もあったのでしょうが、最大の動機は信長軍の唐入りを阻止したかったからだと明智氏は書いています。
「唐入り」は秀吉のアイデアだと思いがちですが、元々は信長のアイデアでした。天下統一を果たした後、日本は信長の親族で統治し、部下たちは中国に出兵させる。平和が訪れた後の武力解体はいつの時代も権力者の課題であり、信長は早い段階からその解決方法を画策していました。しかし部下にしてみれば、やっと平和が訪れたというのに未知の国へ追いやられ、大義のない戦いを強いられるわけですからたまったものではありません。光秀は信長に計画の中止を進言したはずですが、聞き入れてはもらえませんでした。天下統一も目前に迫り、やるなら今(本能寺)しかなかったのです。
当時どの部下たちも唐入りに消極的だったとすれば、それを阻止した光秀には大義があり、支持を得るに違いなく、この謀反は成功する……と光秀は思っていたでしょう。あと数日秀吉軍の到着が遅れていたら、細川家が味方についてさえいたら、というちょっとした誤算だけで、光秀は天下人になれませんでした。
色々とネタばらししてしまいましたが、それでもほんの一部だけに留めたつもりです。有名な「時は今あめが下しる五月かな」の歌に隠された真実、家康の伊賀越えの謎、秀吉の中国大返しの謎など、もっと奥深い内容が収められていますので、明智光秀に興味のある方はぜひこの本を読んでいただければと思います。